はじめに:婚姻費用(コンピ)とは何か
離婚に向けた話し合いが始まると、多くの夫婦が「別居」というステップを踏みます。しかし、離婚協議や調停、裁判が長期化した場合、別居から離婚成立までに数ヶ月、場合によっては数年を要することも稀ではありません。この期間、収入のない、あるいは少ない配偶者(多くは妻と子)の生活が困窮する事態は避けねばなりません。
そこで法的に認められているのが「婚姻費用(こんいんひよう。実務では略して「コンピ」とも呼ばれます)」の分担請求です。
婚姻費用とは、離婚が成立する「前」の、まだ法的に夫婦である期間中に、別居していても夫婦が互いの生活レベルを維持するために分担すべき生活費を指します。法律上、夫婦は互いに「同居、協力、扶助の義務」を負っており(民法752条)、離婚が成立するまでは、たとえ別居していても、収入の多い方が少ない方に対し、自分と同水準の生活を保障する「生活保持義務」を負い続けるのです(民法760条)。
本稿では、この別居中の生活費である「婚姻費用」について、その計算方法、請求手続き、そして実務上重要な「いつから請求できるのか」という注意点について解説します。
Q&A:婚姻費用に関する実務上の主要な疑問
Q1:婚姻費用と養育費の違いは何でしょうか?
請求できる「時期」と「対象」が根本的に異なります。
- 婚姻費用
離婚成立「前」(別居中)に請求する生活費です。対象には、「子の生活費・教育費」だけでなく、「配偶者自身の生活費」も含まれます。 - 養育費
離婚成立「後」に請求する費用です。対象は「子の監護養育費」のみであり、元配偶者の生活費は含まれません。
一般的に、婚姻費用は配偶者の生活費も含むため、養育費よりも高額になります。
Q2:婚姻費用はいつの分から請求できますか? 別居開始時に遡って請求できますか?
原則として、遡って請求することはできません。
家庭裁判所の実務では、婚姻費用は「(家庭裁判所に)婚姻費用分担請求の調停または審判を申し立てた月」からしか認められないのが一般的です。
これは実務上、重要な注意点です。例えば、4月に別居し、生活費が振り込まれないまま7月まで我慢し、8月にようやく調停を申し立てた場合、原則として8月分からの請求しか認められず、4月~7月分の生活費は事実上、回収不能となるリスクが極めて高いです。したがって、別居後、相手が生活費を任意に支払わない場合は、「1日でも早く調停を申し立てる」ことが、権利を確保するために重要です。
Q3:婚姻費用の金額はどのように決めるのですか?
養育費と同様、裁判所が公表している「婚姻費用算定表」を用いて目安を算出するのが一般的です。夫婦双方の年収(養育費と同様、給与所得者は総支給額、自営業者は経費足し戻し後の額)をマトリクスに当てはめ、子の人数・年齢に応じた金額を導き出します。算定表には、子の生活費・教育費に加え、配偶者の生活費も含まれた計算になっています。
Q4:別居の原因が自分(例:不倫)にある場合でも請求できますか?
ケースバイケースですが、制限される可能性があります。自ら不貞行為に及び、家を出て不倫相手と同棲しているような場合(このような配偶者を「有責配偶者」と呼びます)、婚姻費用を請求することは「権利の濫用」または信義則違反であるとして、請求が認められないか、大幅に減額される可能性があります。
ただし、有責配偶者自身(妻)の生活費分は認められなくても、子どもを連れて家を出た場合、子どもの生活費・教育費に相当する部分(養育費相当額)は、子の福祉の観点から、原則として請求が認められます。
Q5:相手が住宅ローンを支払っています。婚姻費用はどうなりますか?
非常に重要な調整点です。婚姻費用の算定表は、権利者(受け取る側)が自分で「住居費(家賃)」を支払うことを前提に金額が設定されています。
もし、義務者(支払う側・夫)が、権利者(受け取る側・妻)の住む家(元々の自宅)の住宅ローンを支払い続けている場合、夫は「婚姻費用」と「住居費」を二重に支払っていることになります。
そのため、実務上は、算定表上の婚姻費用額から、夫が支払っている住宅ローン額(一定の計算方法あり)を差し引いて、実際に振り込む金額を決定する調整が行われます。
Q6:相手が婚姻費用を払わないとき、強制できる方法はありますか?
養育費と同様です。話し合いで決まった婚姻費用は、必ず「強制執行認諾文言付公正証書」または「調停調書・審判書」といった債務名義で残してください。
これらの文書があれば、不払いが発生した場合、直ちに相手の給与や預貯金を差し押さえる「強制執行」が可能です。婚姻費用も養育費に準じて扱われるため、給与の差押えは手取りの2分の1まで可能です。
解説:婚姻費用請求の実務
婚姻費用の法的根拠と生活保持義務
婚姻費用分担義務は、民法760条「夫婦は、その資産、収入その他一切の事情を考慮して、婚姻から生ずる費用を分担する」という規定に基づきます。
そして、この分担義務は、前述の通り「生活保持義務」であると解されています。これは、「自分の生活と同水準の生活を、配偶者と子にも保持させる義務」を意味します。
例えば、夫の月収が100万円、妻が専業主婦で収入ゼロの場合、別居したからといって夫だけが月100万円の生活レベルを維持し、妻と子に月10万円の生活費だけを送金する、ということは許されません。算定表に基づき、双方が同水準の生活を送れるように、収入を「分担」する義務があるのです。
婚姻費用算定表の適用と「年収」の定義
婚姻費用の算定表は、養育費の算定表とほぼ同じ枠組みで作成されています。
注意点は養育費と同様、双方の「年収」の定義です。
- 給与所得者
源泉徴収票の「支払金額」(総支給額) - 自営業者
確定申告書の「課税される所得金額」に、減価償却費や青色申告特別控除などの「支出を伴わない経費」を足し戻した金額
特に、義務者(支払う側)が経営者や自営業者で、経費の計上が不透明な場合、この「足し戻し」計算を巡って争われることになります。
実務上の調整(特別事情)
算定表はあくまで標準的な家庭を前提としているため、個別の事情に応じて金額は調整されます。
- 住居費の調整(最重要論点)
Q5で解説した通り、義務者(夫)が権利者(妻)の住居費(住宅ローンや家賃)を支払っている場合、婚姻費用からその分が控除されます。ただし、住宅ローン全額が控除されるとは限りません。住宅ローンには「資産形成(元本返済)」の側面もあるため、権利者の標準的な住居費相当額のみを控除するなど、複雑な計算がなされる場合があります。 - 高額な学費・医療費
算定表が想定する(公立学校の)教育費を超える、私立学校の学費、高額な塾代、あるいは子の持病や障害による高額な医療費については、「特別費用」として算定表の金額に加算される要素となります。
請求手続き:調停・審判・保全処分
婚姻費用の支払いを求める法的手続きは、家庭裁判所で行います。
- 婚姻費用分担請求調停の申立て
まず、家庭裁判所に調停を申し立て、調停委員を介して話し合いを行います。ここで合意に至れば「調停調書」が作成され、これは判決と同じ効力(債務名義)を持ちます。 - 審判
調停で話し合いがまとまらない場合、調停は「不成立」となり、自動的に「審判」の手続きに移行します。審判では、裁判官が双方の主張や資料(源泉徴収票、確定申告書など)を精査し、支払うべき婚姻費用の月額を法的に決定(審判)します。この「審判書」も債務名義となります。 - 【重要】審判前の保全処分(仮払い)
調停や審判は、申立てから決定まで数ヶ月かかることがあります。しかし、婚姻費用は「今、生活できない」から請求するものです。数ヶ月も待てないという緊急性が高い場合、「審判前の保全処分」という手続きを併せて申し立てることができます。
これが認められれば、裁判官が最終決定(審判)を出す前に、暫定的な金額(仮払い)を支払うよう相手方に命じてくれます。これは、当面の生活費を迅速に確保するために非常に有効な手段であり、弁護士の専門性が活きる分野です。
始期と終期
- 始期(いつから)
前述の通り、原則として「調停または審判を申し立てた月」からです。別居時に遡れない、というのが実務の鉄則です。 - 終期(いつまで)
原則として「離婚が成立する月」または「同居を再開した月」までです。離婚が成立した翌月からは、婚姻費用は終了し、代わりに(取り決めがあれば)「養育費」の支払いが開始されます。
不払いと強制執行
婚姻費用は、養育費と同様に、生活の根幹をなす重要な権利です。不払いが起きた場合、調停調書や審判書、あるいは公正証書に基づき、直ちに強制執行(給与差押え、預金差押え)を行うことが可能です。
支払わない理由が「収入が減った」ということであれば、支払う側が「婚姻費用減額調停」を別途申し立てる必要があり、それが認められない限り、決定された金額を支払う義務は継続します。
弁護士に相談するメリット
婚姻費用の請求は「スピード」が重要です。別居後の生活困窮を避けるため、迅速かつ的確な法的対応が求められます。
- 適正額の迅速な算定と交渉
弁護士が算定表に基づき、適正な婚姻費用を即座に算出します。特に相手が自営業者などで収入が不透明な場合、専門的な知見で実質収入を算定し、住宅ローンの調整や特別事情を加味した妥当な金額を主張・交渉します。 - 申立ての迅速化による権利の確保
婚姻費用は「申立て時」からしか発生しないという実務の鉄則に基づき、弁護士は受任後、直ちに(場合によっては即日)家庭裁判所への調停申立書を作成・提出し、請求開始月を確定させます。依頼者自身が手続きに迷っている間に失われるはずだった数ヶ月分の権利を確保します。 - 「審判前の保全処分」による迅速な生活費確保
調停の長期化が予想され、依頼者の生活が困窮する恐れがある場合、弁護士は直ちに「審判前の保全処分」を申し立て、最終決定を待たずに仮払いの命令を得るよう尽力します。 - 支払い確保の仕組み(文書化と執行)
合意内容を、強制執行が可能な「公正証書」や「調停調書」として確実に文書化します。万が一不払いが発生した際には、迅速に給与差押えなどの強制執行手続きに移行し、生活費の回収を実現します。 - 公的支援との連携
婚姻費用だけでは生活が苦しい場合、児童扶養手当(一定の条件あり)や生活保護といった公的支援を併用できるかどうかも含め、離婚成立までの生活再建をサポートします。
まとめ
離婚が成立する前の別居期間であっても、夫婦は互いに「生活保持義務」を負っており、収入の多い方は少ない方へ「婚姻費用」として生活費を支払わなければなりません。
金額は「婚姻費用算定表」を目安に、双方の年収と子の人数・年齢で決まりますが、住宅ローンの支払いや私立学校の学費などの「特別事情」によって調整されます。
実務上、婚姻費用は過去に遡って請求することができず、原則として「家庭裁判所に調停を申し立てた月」からしか発生しません。
したがって、別居後に生活費が支払われない場合は、躊躇せず、1日でも早く弁護士に相談し、調停の申立てと、必要に応じて「審判前の保全処分」による仮払いを求めることが、離婚成立までの生活基盤を守るために重要です。
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